yabusameyamaのブログ

野草を見続けて40年草花にレンズを向けて好きなように写真を撮る

飯沼慾斎

飯沼慾斎展 大垣市主催


大垣市奥の細道結びの地記念館
今は牧野富太郎博士は日本人ほとんどが知ることとなったが牧野博士に多大な影響を与えた一人。
珍しい江戸時代の植物標本や植物がの展示や牧野博士との関係などが展示してあるが撮影は禁止だった。






飯沼 慾斎(いいぬま よくさい)1782年~1865年
江戸時代の医家であり本草学者。「リンネ」の植物分類法を日本で最初に採用し、草木図説を出版した。
飯沼慾斎は、80歳の時に、博物学・医学・本草学の知識を広めようとシーボルトと会見しようとしましたが、シーボルトの帰国で実現しなかった。
飯沼慾斎の師でもあった江戸在住の宇田川榕庵は、オランダ語の書物を通して、当時の西洋における植物学や化学を学び、シーボルトと交流し、シーボルト持参の洋書を閲覧するなどして西洋の植物学の知識を深めました。彼は「植学啓原」という本でリンネの24綱目の分類法、植物の形態と生理などを解説しています。恐らく彼からリンネの分類学を学んだのだろう。
牧野富太郎は、飯沼慾斎の植物図鑑『草木図説』を高く評価し、増訂草木図説を昭和に入ってから出版しています。
飯沼慾斎が生前に刊行された草部20巻のみであったが、その価値は時代を経ても色あせることなく海外でも高く評価されていた。また、木部の刊行は実に飯沼慾斎死後120年たった昭和52年だった。また、牧野富太郎は慾斎遺愛のトウツバキの花の写生図を描き、自著に掲載している。


現在大垣市に飯沼慾斎が晩年医師として過ごしたところが残っているが個人所有のため公開はされていないそうだ。
飯沼慾斎についてはあまり知られてはいないが私が初めてこの名前を知ったのはもう、30年くらい前に日本スミレ同好会に所属してた時に彼のことを学んだ。

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