yabusameyamaのブログ

野草を見続けて40年草花にレンズを向けて好きなように写真を撮る

海津市・史跡

海津市には史跡が多い
海津市には古い歴史にまつわる地が点在する。
しかし、海津市全体から見ると幕末の木曽三川改修工事や幕末の徳川家を動かした高須松平4兄弟の話題でそれより古い歴史にかかわる地は埋もれてしまっている。


前回、日本武尊に関する地、養老山脈東山麓の「松山大上宮」を紹介した。
この地に至る前に衰弱して歩くのも大変だった日本武尊が海津市南濃町上野河戸(ウエノコウズ)を通っているようで当時は関ヶ原から養老町・南濃町を経て三重県の多度町・桑名市・四日市へ出る恐らく細い山道だったと思われるが当時は唯一の道路で「伊勢街道」と呼ばれていたらしい。この道を南下して四日市で2つに分かれ南下すれば伊勢へ東へ行けば鈴鹿・亀山を経て奈良の都へ出られた。

その上野河戸で尊が弱った体で杖をついて歩いた山道の1部が「杖つき坂」として残っている。
行ってみると多分当時は人家もなく急坂の山道だっただろう。今は近くを国道258号線が通り人家も相当建っているし、細い山道が幾本もある。しかし、ここを探すのは大変だった。
人家は多いと言っても昔の養老山脈の麓を切り開いたであろう、道路は細く曲がりくねっている。グーグルで検索して調べた地図上の地とは大きく違っており、近くの人に何度も聞いてようやく行き着いた。
調べると「杖つき坂」と呼ばれる地は四日市市にもあるよう

だ。


思ったより狭く、隣には家が建っている




天皇お二人が行幸
海津市南濃町の北隣には「滝」で有名な養老町がある。この地は昔から名水で有名だったようで女帝の第44代・元正天皇が奈良の都からわざわざ行幸されておられ、年号も「養老」と改元されておられる。南濃町志津(県道南濃・関ヶ原線沿い)には女帝・元正天皇がお歯黒を塗られたという地が「住吉神社」の境内に残っている。




第44代元正天皇の後を継がれた第45代聖武天皇も奈良から三重県の亀山・鈴鹿・四日市・桑名を通り先の述べた伊勢街道を北上して養老の滝まで行幸されておられる。

多分帰途だろう日本武尊が通った同じ道を下られ松山大上宮のすぐ南の地(南濃町松山)で休まれておられるようだ。。
その地は現在「御鍬神社」として存在する。




その境内のいわれが書かれた立札があるが読んでみて意味が分らない。



そこには「聖武天皇の御後(ごご)が安産され鍬で井戸を掘った水を飲まれたら母乳の出がよく産後の肥立ちがよくな」のような意味のことが書かれているが、「御後」の意味がよく分からない。初めは皇后か女官かと思ったが、ネットで調べてみたりMicrosoft Bing で問い合わせてみても人を指す言葉ではないらしい。ならばどういう意味だろう?
17日に天皇家・皇族などの研究家で知られる所功氏が私が加盟してる会(所功氏も会員)で「日本武尊と白鳥古墳について」の講演をされるので聞いてみようと思っている。

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