yabusameyamaのブログ

野草を見続けて40年草花にレンズを向けて好きなように写真を撮る

日本武尊

日本武尊と海津市南濃町
日本武尊の死の直前と南濃町は大変かかわりが深い。
日本武尊は伊吹山で瀕死の状態となり下山して醒ヶ井から養老を

を通り南下。
養老山脈の麓を通り、多度、四日市、鈴鹿、そして亀山へ向かったという説が残っている。南濃町山崎のつえつき坂で杖をついて歩いた又美濃松山(現在の海津市南濃町松山)で村人からお粥の接待を受けたという言い伝えが残っている。
その後、三重県四日市へ向かい、鈴鹿では尊の笠を祀る加佐登神社があり最終的に亀山で亡くなり、白鳥古墳に葬られたとされている。


古事記と日本書紀では伊吹山の出来事については多少違いがある。
お墓は明治政府は当初鈴鹿市の加佐登神社北の古墳を尊の墓と指定したがその後亀山の白鳥古墳の方に変更して現在に至っている。


養老山美濃松山の東斜面の
      みかん畑の中にある尊を祀る「松山大上宮」





古事記
素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂(海津南濃町)・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。


日本書紀
伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉(醒ヶ井)でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津(三重県桑名)から能褒野(三重県亀山)へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。

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