yabusameyamaのブログ

野草を見続けて40年草花にレンズを向けて好きなように写真を撮る

我流素人の生け花

今日の生け花・その前に・・・・


戦争…その後
先日義兄(女房の兄)夫妻が突然訪ねてきた。
何故かは後で説明するとして、戦争について考えてみたい。


ロシアとウクライナの戦争が始まって1年が経過した。しかし、この先どういう結果になるかは予想が出来ないが確実に犠牲者の数は増え続ける。マスコミ報道はウクライナ南部の攻防については比較的詳しく報道してるが、その中でロシアはウクライナの一部占拠した地域の子供を含む住民や捕虜兵士の多くをロシア本国へ連れ去ったとの報道はあったが彼らがその後何処へ連れていかれどうなったかの報道は全くされない。
子供にはロシア語の教育すら行われているといわれる。


話は日本の戦前の話へ・・・・
昭和に入り日本軍部は増強を続け、東南アジアや中国へ進出し
中国には満州という国まで造ってしまった。その後、16年には無謀にも?アメリカとの戦争に突入。そして、惨敗を喫し20年8月15日についに敗戦となった。
しかし、ここから悲劇が始まる。日本と同盟を結んでいたスターリン率いるロシアが一方的にこの条約を破棄し、満州に侵攻した。日本軍はすでに敗戦していただけに戦うことなく武装解除。そして兵士は捕虜となりシベリアへ送られることになった。

極寒のシベリア収容所へ送られて重労働を課せられることとなった。この地で数万の元日本兵がろくな食事も与えられず次々と病死したと伝えられる。日本兵を重労働に使うことはすべてスターリンの意向だそうだ。


何故これを書いたか・・・・女房の父親は女房がまだ母親のお腹にいる時、昭和19年に召集で満州に送られ、敗戦によりその後このシベリアへ送られた。
そして厚生省より昭和21年3月19日シベリア・イルクーツクにて病死の知らせが届いた。2人の子供(女房の姉と兄)と顔も見ていない昭和20年に生まれた娘(女房)を残して国の為に命を落とした。幼子3人を抱え母親は大変苦労したが立派に3人を育てあげた。兄は名古屋大学工学部の大学院まで行かせ物理学博士になり、母の生きている内に名城大学理工学部長にまでなった。


さて、ここで最初の何故義兄夫婦が訪ねてきたかの話に戻る。実は今ある映画が上映されている。その映画を観た帰りに我がに寄った。「ぜひともこの映画を観てほしい」と言う為に。


昨日夫婦でこの映画を観に行ってきた。
その映画は「ラーゲリより愛をこめて」という映画で二宮和也が主演(妻役を北川景子)を務め、シベリアの強制収容所(ラーゲリ)に抑留された実在の日本人捕虜・山本幡男を演じた伝記ドラマ。作家・辺見じゅんのノンフィクション小説「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」を基に制作されている。第2次世界大戦後の1945年。シベリアの強制収容所に抑留された日本人捕虜たちは、零下40度にもなる過酷な環境の中、わずかな食糧のみを与えられて重い労働を強いられ、命を落とす者が続出し、その数数万にといわれる。
山本自身も長い過酷な抑留生活でガンにおかされ家族(妻と4人の子供)の元へは帰ることはできずシベリアで亡くなる。しかし、ひそかに書き残した遺書がロシア兵の没収から逃れるために仲間4人の頭に記憶させ帰国した4人が記憶を文章に書き、家族への愛情あふれる遺書として妻の元に届けられる。。義兄は恐らく自分の父親とダブられて観てきたのだろう。
義兄は以前シベリアのイルクーツクまで父の墓を探しに行ったが残念ながら見つけることは出来なかった。どこかの極寒の地に眠っているのだろう。


今、ウクライナ問題では悪はロシアとほとんどの国では報道されるが過去のこのように戦争捕虜をごみのように扱った国だ、今、ロシアではスターリンが見直され始めた様だ。この国の軍人たちにも同じような心が引き継がれているように思えてならない。ウクライナの人達の多くがロシアへ連行されている事実を知る時この人たちがどのように扱われているのか気がかりだ。
戦争は終わって悲劇はその後も続くことになることを忘れてはならない。今、平和ボケしてる日本人にはなかなか理解が難しだろう。



今日の生け花
今回はヤブ椿を使った。
今期藪椿では最後の生け花。


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