yabusameyamaのブログ

野草を見続けて40年草花にレンズを向けて好きなように写真を撮る

武田家と恵林寺

大河ドラマ「どうする家康」より
三方ヶ原の戦いで家康は武田信玄に大敗。
命からがら浜松城へ戻るが信玄は家康を追わずに甲斐へ引き上げる。途中で信玄は病気で命を落とす。死に際に自分の花押を押した紙を残し3年間喪に服せと勝頼に命じたといわれる。3年後甲斐・現甲州市塩山の臨済宗恵林寺で美濃から招かれていた快川国師を導師として盛大な法要が営まれたと伝えられる。
昭和36年当時恵林寺の住職(恵林三光ー加藤会元老師)は私の叔父に当たり暫くこのお寺で過ごしたことがある。



恵林寺は信玄の時代は3万坪程があったようだが私がいた当時は1万坪程で山門は3つあった。このお寺は鎌倉時代夢想国師が建立し庭は天然記念物に指定された名園。本堂から鴬張りの廊下を進むと武田不動尊があり武田晴信は36歳頃の美濃から招いた快川国師の元で剃髪し信玄と名乗った。その時の髪の一部を武田不動尊に漆で塗りこまれてともいわれる。この不動尊の外側に信玄のお墓がある。
今日の大河「どうする家康」の最後でこの恵林寺が紹介されたがあまり詳しくは放映されず信玄公のお墓と庭園と山門の1つが紹介された。
宝物殿という案内があったが私がいた当時は宝物殿はなく倉の中に宝物は入れてあり、信玄公の軍配などは実際に持たせていただいた。
私がここお寺らを出てから2年ほど後に立派な宝物殿が出来た。その当時東京東急百貨店で信玄展が開催され、そこにこの軍配も展示され、最終日閉館後住職はこの軍配を持って車で名古屋へ向かわれ私もお見送りをした。翌日は大相撲名古屋場所の千秋楽。そして、結びの一番で木村庄之助がこの軍配を使った。


武田勝頼は再度家康や信長に挑むが長篠合戦で大敗し甲斐へ引き上げるが家臣らが次々離反し最後は自害する。
その後、京で15代将軍義明と組んで反信長だった佐々木次郎氏が恵林寺へ逃げ込む。信長は引き渡すように要請するが快川国師は拒否、甲斐へ攻め込んだ信長の長男信忠により山門に100余名の僧と一緒に閉じ込めて火を放って焼き殺している。今はその山門は再建されているが当時の物は扉だけだそうだ。
信長の死後恵林寺は家康により保護、再建された。家康のすごさは武田家の家臣を上手に自分の配下に取り込んでいることだろう。御三家の1つ水戸藩を作った時に水戸藩主の臣下に武田家の家臣の多くをいれている。



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