yabusameyamaのブログ

野草を見続けて40年草花にレンズを向けて好きなように写真を撮る

歴史の一コマ

死者との約束
ある月刊誌の中に歴史の中の1コマが書いてあった。
真実か逸話かはわからないが大変興味あるものだった。


関ケ原の戦いは徳川家康率いる東軍の大勝利に終わり西軍は総崩れになり石田三成などは捕らえられ処刑され首は晒された。
しかし、三成と共に戦った大谷吉継は戦場で切腹、吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ東軍側に発見されることはなかった。
このことについて、大谷隊と戦った藤堂高虎隊の中に藤堂仁右衛門という人がおり、激しい戦いのなかのどが渇き谷へ降りて水を飲もうとしたらそこで大谷吉継の重臣湯浅五助に出会う。
そこで藤堂仁右衛門が槍を構えて戦いを挑んだら湯浅五助が「いや、待たれよ。今、主の大谷吉継の首を埋めているところでござる。勝負はするが貴殿を見込んでお願いがござる。主人の容貌は腐りの病でみるに耐えぬほどになっている。首を晒されたら天下に醜貌を晒すことになるだろう。ついては首を埋めたこの場所を、どうか他言しないでもらいたい。我が願いを聞き届けとあらばよろこんで槍をあわせよう。」

主人を思う気持ちに打たれた藤堂仁右衛門は「委細承知」と答え首を埋めるのを待った。そして勝負して五助の首をあげた。その後、東軍は吉継の首を探すが見つからない。そこで家康は大谷吉継の重臣湯浅五助を打った藤堂仁右衛門を呼び出し詰問。仁右衛門は「存じております」と答える。家康は直ちにここへ首を持ってくるように命じる。しかし、「それはできません。五助殿に頼まれた故たとえご上意でもその場所は言えません」と答える。周りの重臣たちは色をなして怒るが「たとえ成敗されても申し上げられません」「ならば成敗するぞ」「ご随意に」と仁右衛門は首を前に伸ばした。この様子をみていた家康は近習「そこにある槍を持て」と命じた。
一瞬緊張が走ったが家康は槍を手にして「仁右衛門、その心がけいつまでも忘れるなよ」と言ってその槍を仁右衛門に渡した。大谷吉継の首を差し出せば大きな恩賞を得たであろうが五助との約束を重んじた。特に死者との約束は変更が不可能な約束事、これをほめた家康もやはり立派な武士だったということだろう。

×

非ログインユーザーとして返信する