yabusameyamaのブログ

野草を見続けて40年草花にレンズを向けて好きなように写真を撮る

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その前に間違いやすい植物を取り上げてみたい。


センダン(栴檀)とセンダン(栴檀)
最近実のぶら下がったセンダンの枝を使った生け花を数回掲載してきた。
しかし、本物の栴檀と呼ばれる木は別にある。
この栴檀について私の師でもあった元日印教育協会総裁だった故前田行貴博士の記述から転記してみた。 


                      「栴檀は双葉より芳し」
この言葉は栴檀は芽だしの双葉の頃より良い香りすることから秀でた人は子供の頃からすでに香り(気品、才覚など)があるの例えに使われる。しかしこれは中国から伝来した言葉の解釈を間違えたのである。
実は栴檀は双葉よりしくない
“栴檀は双葉より芳しく、梅花はつぼめるに香あり”とは西行法師の諺として伝えられているが、その劈頭の栴檀は、実際には双葉より芳しくないのが普通である。もちろん、九州や四国から中部地方の暖地や海浜に近いところに産する落葉高木の、淡紫色花を多数につけるセンダン科のセンダン(棟)ではなく、その学名の原種となっているトキワセンダンでもなく、また近年流行している健康増進用の原木で、インド原産にしてマレ一帯にまで分布しているインドセンダンでもない。
漢字の栴壇が当てはめられたのは、日本で称するところのビヤクダン科の白檀で、インドのチヤンダンであり、サンスクリット(梵語)では、チヤンダンまたはチヤンダナとも記載されている。一世紀の中頃、仏教の中国伝来とともに、チヤンダンが香木中の最高貴品として、王侯貴族の間で大いに珍重されたようであるが、チヤンダンの発音に基づいて漢字で栴檀と書き、それを日本語ではセンダンと読んでいるので「棟」と「栴檀」を日本で混同したのは、中国と日本の漢字の読み方による相違である。ビヤクダンは学名をSantalom album Lと記載され、英語ではサンダル・ウッドといい、半寄生の常緑小高木で、高さが10m近くに達するものもある。発芽当初は独立しているが、成長するに従い直径5~6mmの吸盤を根の先端につけて、宿主植物の根に寄生する。問題があるのは、寄生するところのその宿主植物である。
真宗本願寺の第22世法主大谷光瑞(1876~1947)は、中央アジアから西域の敦煌一帯まで、シルクロードの仏跡調査探検と、インド王舎城外の釈尊晩年の説法地″霊鷲山”の再発見で、世界的に不朽の名声を博したが、かつて台湾が日本統治下であった時代に、南端の恒春植物園に、ビヤクダンの栽植を試みた。
インドのマイソールから種子を輸入して、栽培に努力したのであるが、生育は不良で、その上に香気も芳しくなく、遂に不成功に終ってしまったが、それは宿生植物に対しての考慮が充分でなかった結果で、専門家ではないのだから無理もない。当時は未だビヤクダンの研究家は日本にはいなかったのである。
しかしビヤクダンが半寄生木だということは、古代のインド人達は、豊かな生活体験から感知していたようで、西ガーツ山脈の牛頭山に生育するビヤクダンは、早くから″牛頭栴檀”と漢訳され、ビヤクダンの中で最も高貴な芳香に飛んでいると伝承されている。
五世紀の初め、インドを訪ねた法顕三蔵や、七世紀初めに旅した玄奨三蔵の記録によると、惰賞弥国の優填王は、釈尊が亡き摩耶母堂のために、天上界に昇って説法されたのが、三ケ月の長きに及んだので、釈尊を思慕して、釈尊の像を刻むことを懇願した。
そこでパトカラ尊者は、神通力で彫刻家を同伴して天上界に昇り、親しく釈尊の妙相を観察して、栴檀に彫り刻んで持ち帰り、大精舎に奉安した。釈尊が天宮から帰られると、栴檀の聖像はって世尊をお迎えした。釈尊は「大衆を教化されること御苦労です。末世まで教導して下さることが私の願いです」と慰労された・・・という物語がある。この事はインドにおける神像彫刻の最初の伝説と考えられ、の名がすでに明示されている。「観仏三昧海経」の中に「牛頭栴檀は、伊蘭(サンスクリット語ではErabnaという、とうごま属の一種)のの中から発芽する。その伊蘭は極めて死臭を放ち、食すると発狂して死に至るが、栴檀はそのような臭い中から成長するに従い妙香を放ち、伊蘭の悪臭を消滅し浄化する・・・」という意味のことが説いてある。
平安朝末期に平康頼が、この「観仏三昧海経」を解説しているが、「栴檀は双葉にならない時から匂い芳ばしくして、伊蘭の臭気を消してしまう云々・・・」と記し、また「源平盛衰記」には「栴檀は双葉より芳しくして、四十里の伊蘭の林をひるがえし、頻伽鳥は卵の中にあれども、その声諸鳥に秀れたり……」とあるから、西行が実物を知る由もなく、それに依ったため、思わざるところのミスを生じたのであろうが、ただし譬喩としての一理があるのは論ずるまでもない。
1871年、カルカッタ植物園長の英人スコットは、同植物園のビヤクダンに隣接してあったヤドリフカノキの一種を伐採したらビヤクダンの葉がしおれて落葉し、成長も衰えてしまい、その後ヤドリフカノキの一種の切り株から、ひこばえが出てそれが成長してくると、ビヤクダンの樹勢が回復するのを観察した。これが近世における再発見の動機である。
その当時、南インドのコインパートル地方には自生品も多く、従って英人の手によってビヤクダンの栽植園が設立され、そのビヤクダン樹林内に繁茂する雑草や雑木は、経費の面で20年近くの年月を経て剪定するだけであった。1889年にビヤクダンの成長促進を願って、周辺の雑木を伐採し、根を掘って焼却したら、ビヤクダンそのものの樹勢が衰えてしまった。
このような失敗の経験から、英人達はビヤクダンの栽植のためには、ある種の宿主植物が必要なことを痛感したのである。ただしビヤクダンの種苗がどのような植物に寄生するかによって、香気に相違の生ずることが判明しているのは、アオイ科とイネ科の植物100種余りが挙げられている他、未だ確証ある定説はない。
現在自生品は、南印のカルナタカ州からケララ州に達する山林中に稀にはみられるが、高木ではなく3~4m前後のもので芳香も少ない。栽培の中心はマイソール地方の乾燥した広潤な土地で、高地の乾燥した疎林中に直播して育成しているが、発芽には一年以上を要し、40年乃至50年で収穫期に達する。枯死したものでも芳香は変らないので、それを採用している。
ビヤクダンの日本語の語源は、チヤンダンの辺材が一般に白色であるためと、中国人が白梅檀とも記したので、それを略して白檀と書いたことにより、それが日本語にそのまま引用された訳で、白色の辺材は香気に乏しく、芳香を漂わせるのは心材であり、根部の材になると強烈な芳香があるから、それだけに珍重される。その芳香の強いところは白色ではなく、淡黄色や褐色を帯びたところの赤身材質はヒビと反りかえりが激しいので、それを防ぐため日光に当たらぬように注意して乾燥させ、仏像や神像彫刻、扇子、象嵌細工、装飾品、ステッキ、ペーパーナイフ、数珠等の製作に用い、薄片として名札やレイを作り、粉末として神殿・寺院の薫香料や線香の原料としている。さらにインド文化圏では、高貴な人や富者達の火葬には、ビヤクダンの薪を用いるのを最高葬としている。
なお、水蒸気蒸留装置によって根部や心材の粉末から、サンダルウッド・オイルを採って、麻疾系の治療にも用いているが、これはサルファー剤出現以前の特効薬であり鎮痛の効能がある。また香水の原料にしたり、化粧料や化粧石鹸に利用している。
インドの農村や山間僻地で、コブラ系統の蛇にやられた場合、抗毒素血清療法の不可能な地帯では、ビヤクダン材の香気強烈な部分を清水で溶き、その粘液を秘薬と称し、蛇の毒を消すと伝えられ、今日でもバラモン階級や蛇使いの家伝秘薬として、マントラ(呪文)を唱えながら用いられている。
日本における香料としてのビヤクダンの歴史は、「日本書記」の天智天皇10年(671)の記録の中に表われているが、平城京内内裏の遺跡近くにある法華寺は、光明皇后創建の寺院で、本尊の覿世音菩薩像は、光明皇后の慈悲を慕って、天竺からビヤクダンを持参して、光明皇后のお姿を刻んだものの一体と伝えられ、その優婉さは一入優れている。

白檀彫刻(インド)



今日のお茶
お菓子
   桑名市 花乃舎 「こぼれ梅」


茶碗
   萩焼 新庄寒山窯13代新庄忠相氏作
      萩焼茶碗




   臨済宗妙心寺派第22代管長
     古川大航師 画
      「達 磨」

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