yabusameyamaのブログ

野草を見続けて40年草花にレンズを向けて好きなように写真を撮る

我流素人の生け花

今日の生け花・その前に・・・・



鎌倉殿の13人これからの展開は?
大河ドラマの「鎌倉殿の13人」では毎回陰謀が渦巻き有力御家人が殺されてゆく。事実もそうであろうが三谷幸喜氏の描き方がなかなか面白い。前回は北条時政が妻牧の方(宮沢りえ)に操られ実朝を将軍の座から下ろし牧の方の娘婿の平賀朝頼を鎌倉殿にし、その後を善哉(公暁)に継がせるというような会話があり善哉の後見人三浦義村(山本耕史)も納得。
三浦義村が常に重要な人物として登場している。義村は時代の流れにうまく乗って生き延びた人物だったのだろう。


次回(10月2日)は三浦義村の寝返り?などにより息子義時(小栗旬)にこの陰謀は阻止され、時政は牧の方共々鎌倉を追放され伊豆は流される。1205年の出来事。


続いて起きるのは1213年の和田合戦といわれる和田義盛の乱。関係がよかった和田義盛と義時だがやがて溝が出来る。
初めは三浦義村を見方につけて義時と対峙するが義村が義時側に寝返り和田氏は滅ぶ。三浦義村は何か起きる度のキーマンではあるがその時々の強い方に寝返って三浦の生き残りを保っている。


続いて1219年1月実朝が鶴岡八幡宮へ義時を伴い参内した時に2代将軍源頼家の息子の公暁(幼名善哉)により「親の仇」と暗殺される。この時公暁は鶴岡八幡宮の別当に就き、実朝の猶子となっていた。
しかし鶴岡八幡宮の楼門のところで義時は体調不良を理由にそこから先を辞退し太刀持ちを源仲章に交代、公暁は源仲章を義時と間違えて切り殺す。
この事件にも三浦義村がかかわっていたといわれている。実朝を殺害した公暁は三浦義村に自分が将軍になるから迎えに来るように伝えるが義村は義時に知らせ、追っ手により公暁は殺される。この部分を三谷氏がどう描くかも見もの。


そして、最大の事件である1221年」後鳥羽上皇による北条義時追討の兵をあげる。世にいう「承久の乱(変)」だが、義時は息子泰時を総大将として戦いに向かわせ、後鳥羽上皇側を打ち破る。上皇らを島流しにしてこの事件は決着。
この時に鎌倉側の動揺した御家人を1つにまとめた有名な政子の演説をどのように描くのか。
その3年後1223年、義時が63歳で死去する。表向きは脚気が原因の心不全ではといわれるが暗殺説というのがある。三谷氏最後を簡単に病死で終わらせるとは思えない。
義時死去に伴い義時の後妻伊賀の方は跡継ぎを泰時ではなく自分の産んだ子、北条政村にしようとした「伊賀の変」が起きているから伊賀の方による殺害で終わらせるのではないだろうか。
この時も三浦義村は伊賀の方につくが政子の説得で泰時を3代目執権で決着させている。

この翌年には「鎌倉殿の13人」で最後に残っていた大江広元と政子も亡くなる。そして長く生き延びるのが三浦義村で1239年まで長きして泰時を補佐する。
三浦義村は頼朝の鎌倉幕府成立から3代目執権北条泰時が幕府を安定させるまでの時代を生き延びた唯一の御家人だろう。生きざまがすごい。
三谷氏は所々に意味不明と思われるような場面を入れている。

例えば比企殺害の時、生き延びた源頼家の子善哉(公暁)をブランコで遊んでいる時義時は殺そうと刀に手をかけるが思いとどまる。
その後、善哉の前に老婆(頼朝の乳母比企尼ー草笛光子)が現れて「あなたこそ鎌倉殿になられる方」とか「北条時政、義時を決して許してはならない」とたきつける場面は後の実朝暗殺を暗示させている。又義時が後妻の伊賀の方を迎える場面で義時が伊賀の方にキノコを贈るがキノコ嫌いの伊賀の方がこれを喜んで受け取り、その後の場面でキノコは嫌いだと侍女たちに分け与える。何故こんな場面があるのか?謎だったが、今、ささやかれているのは伊賀の変の折、義時を毒キノコで殺すのではないかといわれている。さて三谷氏の描く最終回は?




今日の生け花
先日養老山脈庭田山で見つけた紅イタドリ(メイゲツソウ)を使う。
花は枝びっしりとついており大変派手で豪華だが私の引き算の生け花には向かないので花は半分以上落し、葉はほとんど落した。

合わせた花は同じ仲間のイタドリの通常の白い花。紅白のイタドリで生けてみた。


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