yabusameyamaのブログ

野草を見続けて40年草花にレンズを向けて好きなように写真を撮る

今日のお茶

今日のお茶・その前に・・・・
幕末徳川尾張藩主 徳川慶勝


昨日海津市の「歴史民俗資料館」で中京大学教授白根孝胤氏による幕末尾張藩主の徳川慶勝氏が残した撮影写真についての講演会があった。
今月初めに受講希望者50名を募集したので応募しておいた。


尾張徳川藩主 徳川慶勝氏の残した写真をスクリーンに写しその時代背景等について解説があった。 


おおよそ下記の内容


当地は江戸時代は高須藩で幕末の藩主は松平義建氏,徳川家の血筋で幕府では高位にいた方で息子は多く、早死にされた方もあったが4名が明治まで生き残っている。




長男は尾張徳川家へ養子に入るが藩主が亡くなり幕府は宗家筋から次の藩主を送り込もうとするが家臣の反対が多く養子に入っていた義建の長男が尾張徳川家藩主となる。名前を徳川慶勝と改名する。


1848年のオランダから写真技術が島津藩に初めてもたらされた。当初は銀板写真と呼ばれるものであったが、やがてアンブロタイプといわれる写真技術が普及するようになる。有名な坂本龍馬の写真はこのタイプである。尾張藩主の徳川義勝もこの技術を導入し
江戸の戸山下屋敷でこの技術を研究し、下屋敷、中屋敷、上屋敷また江田城や名古屋城などを撮影し原版を桐の箱に収めて多く残した。今は観ることができない名古屋城の江戸時代の貴重な写真を残している。明治になると政府から江戸の屋敷は接収され別の所に住居を移し、そこでも写真に没頭している。中には明治天皇から依頼を受けて江戸城内の写真も撮影し、身分が以前とは違うので下町へも自由に出ることが出来るようになったので街の様子も撮影して江戸から明治の貴重な写真を多く残した。
幕末高須藩主の松平義建には4人の息子が生存していたが、残り3人は桑名藩主に、会津藩主に15代将軍が出た一橋家の後をそれぞれ継いだ。しかし、悲劇の4兄弟といわれる。4人は明治維新前に官軍支持と幕府支持の2つに割れる。最後まで幕府に忠誠を尽くしたのは会津松平藩をついた京都守護代だった松平容保。後に悲劇の4兄弟と呼ばれるが明治になって徳川慶勝らの努力により容保らは赦され、容保は日光東照宮の宮司に就任している。
その後4人が一堂に会する機会が訪れる。


一番右が徳川慶勝 左から2人目が会津藩主だった松平容保
松平容保は京都所司代で当時のこの配下に「新選組」がおり
勤皇派の志士たちを取り締まったため長州藩では目の敵と
していた。


義達の17回忌だといわれ4人が一緒に写真に収まった。その後はたびたび会食したと伝えられるが慶勝はこの写真撮影4年後に60歳で亡くなったようだ。今年徳川宗家の当主は高齢で隠居し新たに宗家の当主になったのは容保の子孫だそうだ。



余談ではあるが松平容保の会津藩が何故最後まで徳川家を護り最後まで戦ったかは、さかのぼること3代将軍家光の頃、2代秀忠の子として生まれながら秀忠の正室「お江(淀君の妹)」を恐れ
ひそかに高遠藩に預けられた保科正之で幕閣の一部にしか知らせれてなかった。家光がこれを知り自分の側近に取り立て会津23万石を与える。家光死後4代目が若かったので補佐し江戸の町創り等に力をいれ、4代将軍が成人するとようやく28年江戸城勤務を終え会津へ帰った。
その時に「歴代の藩主は徳川の恩を決して忘れてはならない」と
書き残したために代々の会津藩主はこのことを忠実に守った。
最後の藩主容保もこのことを守り徳川家に忠誠を尽くしたようだ。







今日のお茶
お菓子
   海津市尾張屋昌常 「卯」


茶碗
   九谷焼 森澤昭三氏作
    深厚釉窯変茶碗




 天台宗  比叡山 第253世 天台座主筆
     「以和爲貴」


聖徳太子が制定した十七条憲法に出てくる
    「和を以て貴しとなす」
       

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